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戯曲『駱駝祥子』と私の故郷 |
発信時(shí)間: 2009-11-23 | チャイナネット |
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東京大學(xué)文學(xué)博士 大山 潔 (寫(xiě)真は筆者提供) 日本初の翻訳出版 2007年は中國(guó)話(huà)劇百周年、『駱駝祥子』腳本化50周年だった。この節(jié)目の年に私は、私の家に中國(guó)語(yǔ)を習(xí)いに來(lái)ている三人の生徒と、中日対訳本『戯曲 駱駝祥子 第一幕』(樹(shù)花舎)と朗読CDを自費(fèi)出版した。 戯曲『駱駝祥子』は、老舎の小説を梅阡が腳色したものである。日本では、老舎の小説『駱駝祥子』は日中戦爭(zhēng)のさなか1943年3月に初めて翻訳出版され、以來(lái)十何種類(lèi)もの訳本があるが、戯曲の方はこれまで正式な日本語(yǔ)訳がなかった。中國(guó)では『駱駝祥子』は老舎の小説としてよりも、むしろ舞臺(tái)劇や映畫(huà)として親しまれており、日本では戯曲版があまり知られておらず、翻訳もないことを知って私は驚いた。 老舎の子息、舒乙先生(左)から書(shū)を頂いた筆者 北京の庶民に愛(ài)される 梅阡の戯曲は原作を劇に移しかえただけのものではない。とくにラストの部分に梅阡は大きく手を加えている。原作では、主人公の祥子は希望を失い墮落して、物語(yǔ)は悲慘な結(jié)末で終わるが、梅阡はそれを未來(lái)への希望が感じられるように書(shū)き換えている。梅阡の書(shū)き換えについてはいろいろな意見(jiàn)や評(píng)価があるが、一つ確かなことは、梅阡の話(huà)劇『駱駝祥子』が中國(guó)の人々、とくに北京の庶民の圧倒的な支持を受け、心から愛(ài)されてきたということである。 老舍夫人の胡絜青女史は「話(huà)劇『駱駝祥子』は北京人民蕓術(shù)劇院(人蕓)の得意の演目である。主人公の祥子と虎妞は、舞臺(tái)蕓術(shù)家によって生き生きとした人物になり、北京人で知らないものがいない人気者になった。とくに舒繍文が演じた虎妞が話(huà)題になると、北京人は喜色満面、まるで親しい友人のことのように話(huà)が盛り上がる」と書(shū)いている。 夫人によれば、老舎自身も話(huà)劇『駱駝祥子』を観て心を奪われ、大きな刺激を受けてその続編を書(shū)こうとさえしたという。梅阡の書(shū)き換えは、決して改悪ではなく、意味のあるものだったのである。 私が初めて話(huà)劇『駱駝祥子』を観たのは、「文化大革命」が終わり、18年の空白期を経て再び上演されるようになった1980年のことである。當(dāng)時(shí)大學(xué)二年生の私は、自転車(chē)で往復(fù)2時(shí)間かけて首都劇場(chǎng)に『駱駝祥子』を観に行った。その帰り、興奮と感動(dòng)が冷めぬまま、虎妞になったつもりで臺(tái)詞を真似しながら、人影の絶えた通りを自転車(chē)を走らせた。それを今でも鮮明に覚えている。
その十?dāng)?shù)年後、私は日本で中國(guó)語(yǔ)教材として『駱駝祥子』の腳本を選んでいた。數(shù)ある現(xiàn)代中國(guó)文學(xué)の作品の中から『駱駝祥子』を選んだのはなぜだったのだろうか。昔の北京を知り、生きた北京語(yǔ)の會(huì)話(huà)を?qū)Wぶのに適しているという理由もある。でもそれだけではないような気がする。 ある日、新華社の文章に「時(shí)代の記憶の一つとして、40歳以上の北京っ子はほとんど誰(shuí)もが梅阡先生を知っている。人々は彼の話(huà)劇とともにあの話(huà)劇の黃金時(shí)代を生きたのである」とあるのを読んだとき、自分の気持ちがはっきりと分かった。私はまさにその「話(huà)劇の黃金時(shí)代」に北京で青春時(shí)代を過(guò)ごし、中でも梅阡の『駱駝祥子』がもっとも印象的な演目だったのだ。『駱駝祥子』を通じて私は中國(guó)での青春時(shí)代の輝きの一つを日本の生徒たちに伝えたかったのである。 全五幕の翻訳?出版へ 『駱駝祥子』の翻訳は難航し、8年かかってようやく第一幕の出版にこぎつけた。出版後、「ぜひ完全版を」という多くの要望が寄せられたが、これまでの苦労とこれからの困難を考えると、なかなかそういう気持ちにはなれなかった。 そんなある日、お茶の水女子大學(xué)名譽(yù)教授の中山時(shí)子先生から突然お電話(huà)を頂いた。すでに85歳になられた著名な老舎研究家の先生が「CD を聴きました。體が震えるほど興奮しました。でも第一幕だけではもったいない。何とかして第五幕まで全部出すべきです」とおっしゃって下さった。この時(shí)の先生の言葉が私の心の中でいつまでも響き、とうとう完全版の翻訳を決心した。 2008年8月、オリンピックで沸き返る北京を訪(fǎng)れ、人蕓の13名の俳優(yōu)たちに參加してもらって『駱駝祥子』全五幕の朗読を録音した。完全版に向かって第一歩を踏み出したのである。 『駱駝祥子』の翻訳を進(jìn)めているうちに、ふと気がつくと、私の本棚は『北京風(fēng)俗図譜』『明清北京城垣和城門(mén)』『老北京360行絵本』など古い北京に関する本であふれるようになっていた。『駱駝祥子』を追っているうちに、いつの間にか私は古い北京をも追い求めるようになっていた。 北京は私が生まれ育った故郷である。しかし、『駱駝祥子』の翻訳を始めると、古い北京について何も知らないことが痛いほど分かってきた。祥子の時(shí)代の北京城を確認(rèn)することすらもはや大変困難なことなのだ。 1957年、北京人民蕓術(shù)劇院の上演した『駱駝祥子』。李翔の演ずる「祥子」(左)と舒繍文の「虎妞」 私は果たして古都北京の風(fēng)情を日本の人たちにうまく伝えることができるだろうか。『駱駝祥子』全五幕の翻訳?出版という大任を成し遂げることができるだろうか。お世話(huà)になった梅阡夫人、舒乙先生(老舎の子息)、中山先生、人蕓の俳優(yōu)たちに「完成しました」と報(bào)告できるのはいつの日だろうか。私は時(shí)々、どうしようもなく不安な気持ちに陥ってしまう。 そんなとき頭に浮かんでくるのは、2007年4月、北京科技大學(xué)で「『駱駝祥子』在日本」というタイトルで講演をしたときのことである。講演後ある學(xué)生に「あなたは中國(guó)の古典文學(xué)を研究し、現(xiàn)代中國(guó)語(yǔ)を教え、さらに『駱駝祥子』の翻訳?出版までされましたが、それは何故でしょうか」と質(zhì)問(wèn)された。今思えば恥ずかしくなるが、私はとっさに「是為了愛(ài)(愛(ài)のため)」と答えていた。 いま私は、その時(shí)思わず口をついて出た「愛(ài)」とはいったい何かをあらためて考えている。それは青春時(shí)代に抱いた演劇の世界への憧れ、私を魅了した話(huà)劇『駱駝祥子』への愛(ài)著であろうか。遠(yuǎn)い故郷に寄せる渇望にも似た戀慕の情であろうか。私を暖かく受け入れ、大きく育ててくれた第二のふるさとへの感謝の念であろうか。たぶんそうしたもの全てが私にとっての「愛(ài)」なのであろう。こうした「愛(ài)」があったからこそ私は今日まで歩んでこられた。そして、この「愛(ài)」がこれからもきっと私を支えてくれるに違いないと信じ、『駱駝祥子』全五幕の翻訳に取り組んでいる。 大山 潔(オオヤマ キヨ、中國(guó)名:陸潔) 1959年北京生まれ。1982年北京科技大學(xué)卒業(yè)、同校の専任講師。1987年來(lái)日。東京大學(xué)文學(xué)博士?,F(xiàn)在、明治大學(xué)、東京理科大學(xué)等の非常勤講師。 「人民中國(guó)インターネット版」 2009年11月23日 |
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