文=コラムニスト?陳言
『サンダカン八番娼館 望郷』に出演した栗原小巻さん
6月、東京會(huì)館で栗原小巻さんを取材した。
30年ほど前、中國(guó)の若者の多くがそうしたように私も『サンダカン八番娼館 望郷』(1974年?學(xué)者三谷圭子役)、『愛(ài)と死』(1971年?夏子役)そして『男はつらいよ』などを観に映畫(huà)館に通っていた。當(dāng)時(shí)外國(guó)映畫(huà)といえば朝鮮やルーマニアのものがほとんどだった中、日本映畫(huà)はとても新鮮で真の映畫(huà)蕓術(shù)を目にしたように思えた。『愛(ài)と死』や『男はつらいよ』はセリフを覚えてしまうくらいに何度も観たものだ。以來(lái)、女優(yōu)?栗原小巻の姿は心に深く刻まれている。
その栗原小巻さんを自分がこうして取材できるとは思いもよらないことで、彼女が目の前に現(xiàn)れた時(shí)もまるで夢(mèng)の中にいるようだった。梅雨の東京は、暑いどころか北京よりもだいぶ涼しく感じられた。パステルカラーのスーツに身を包んだ彼女はスクリーンで目にした當(dāng)時(shí)と全く変わらない印象で、その若々しさ、瑞々しさが40年経った今もなお保たれていることに驚いた。
『清涼寺的鐘音』(1991年?『乳泉村の子』 この日本語(yǔ)のタイトルの方が映畫(huà)の內(nèi)容により即しているように思える)以降、栗原さんは活躍の場(chǎng)を舞臺(tái)に移してきた。しかし私は日本の演劇に詳しくないため、彼女が出演作品や登場(chǎng)人物、そして各地で演じた際のエピソードを聞かせてくれても殘念ながらあまり理解できなかった。
栗原さんはそんな私の気持ちを察してくださったのだろうか、話題を日中の文化交流に移した。彼女は現(xiàn)在日本中國(guó)文化交流協(xié)會(huì)の理事も務(wù)めている。1956年に設(shè)立されて以來(lái)55年間活動(dòng)を続けているその協(xié)會(huì)は、日本の文化各界のそうそうたる顔觸れが會(huì)員として名を連ねており、各會(huì)員による會(huì)費(fèi)で運(yùn)営されている。日中関係が微妙になった際にもそれぞれの力を発揮して協(xié)會(huì)の活動(dòng)を維持し、日中の文化交流を推し進(jìn)めてきた。