延安市寶塔山の山腹には、観光客がめったに訪れることのない平屋建てと橫穴式の住宅がある。捕虜となった數百人の日本兵は70年以上前、ここの日本工農學校で教育を受けた。前線に復帰した一部の兵士は、戦爭分子から反ファシズム戦士に生まれ変わっていた。この大きな変化は、延安に駐留していた米軍の観察部隊を驚かせたほどだ。
延安革命記念館の研究員である霍靜廉氏は、「1940年の百団大戦後、八路軍の捕虜になる日本兵が増えていった。同校は1941年5月15日に始業式を開いた。第1陣として教育を受けた捕虜は11人。その後、八路軍と新四軍の捕虜になった一部の日本兵が、続々と延安に送られていった」と説明した。
この校名には、一つのエピソードがある。これらの捕虜の多くは日本の一般家庭や農家の出身で、日本軍國主義の毒から深い影響を受けていた。そのため議論を重ねた結果、校名を「工農學校」とすることが決まった。
このような政策のおかげで、多くの日本兵が感化された。霍氏は、「彼らは來たばかりの頃は強い反感を持っており、共産黨から拷問を受けると思っていた。共産黨がまるで味方のように扱ってくれるとは思わなかった。八路軍の戦士は延安に送る途中、負傷した日本兵を背負った。これは彼らを感動させた」と話した。
日本共産黨の岡野進が、延安の日本工農學校の校長に就任した。教育內容には政治の常識、日本問題、社會発展史、経済、國際時事などが含まれた。捕虜の生活を改善するため、日本留學経験を持つ趙安博、李初梨が派遣された。
霍氏は、「中國共産黨は同校の生徒に、軍団以上の幹部の待遇を與えた。1人當たり毎月18キロの穀物、1.5キロの肉を支給した。戦時中で物資の少ない延安で、どれほどの厚遇であったかが伺える」と述べた。