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山高し道遠(yuǎn)し 徐敦信元駐日大使が見(jiàn)る中日関係 |
発信時(shí)間: 2009-09-21 | チャイナネット |
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1972年9月29日、中國(guó)政府と日本政府は「共同聲明」に調(diào)印し、中日國(guó)交正常化が実現(xiàn)した。翌年1月、雙方は相互に大使館を設(shè)置、中日関係はここから新たな一頁(yè)を切り開(kāi)いていった。駐日大使を務(wù)めた今年75歳になる高齢の徐敦信氏がこのほど、週刊誌「瞭望」記者に60年來(lái)の中日関係の歴史的軌跡について語(yǔ)った。
「民が官を促す」形で正式國(guó)交 中國(guó)の外交全般において、中日関係は最も重要な二國(guó)関係の一つですが、同時(shí)に比較的複雑かつ面倒なことの比較的多い二國(guó)間関係でもありました。概括すれば、両國(guó)には2000年余りにわたり友好的に往來(lái)し、互いに學(xué)び合い、互いに補(bǔ)完し合うという歴史のみならず、近代には半世紀(jì)も厳しく対立した歴史があります。日本の全面的な中國(guó)侵略は、中國(guó)に深刻な災(zāi)難をもたらしました。もちろん、日本の庶民も傷つき犠牲となりました。中日の間には恩怨があり、それに加え國(guó)際情勢(shì)が変化したために、二國(guó)間関係は複雑になっていきました。
中日は隣接していますが、イデオロギーや政治制度は異なり、文化?伝統(tǒng)や経済発展の段階も違うことから、両國(guó)に存在する意見(jiàn)の食い違いや矛盾、利害の衝突を避けるのは不可能です。新中國(guó)建國(guó)後、當(dāng)時(shí)の日本當(dāng)局は米國(guó)に追隨し、中國(guó)を敵視する政策を講じ、新中國(guó)を承認(rèn)せず、臺(tái)灣との外交関係を維持し続け、しかも1952年にはいわゆる「日臺(tái)和約」を結(jié)びました。その後も日本は、米國(guó)と連攜してあくまでも中國(guó)の國(guó)連復(fù)帰を阻止する姿勢(shì)を貫きました。そのため、中日関係は23年の長(zhǎng)きにわたり一種の不正常な狀態(tài)に置かれてしまったのです。
こうした狀況の下、両國(guó)の間には官の交流はほぼありませんでした。しかし、民間の往來(lái)は中斷されることはなく、しかも新中國(guó)の経済回復(fù)に伴い、また日本自身の必要性から、民間の交流はますます活発になっていきます。
民間の友好往來(lái)を推進(jìn)するために、中國(guó)政府は重要な役割を発揮しました。中央の指導(dǎo)者は中日関係を非常に重くみて、一連の正しい方針と政策を制定するとともに、自ら率先して多くの仕事に取り組みました。例えば、政治面から言えば、日本は敗戦國(guó)であるため、我々は少數(shù)の軍國(guó)主義者と広範(fàn)な一般大衆(zhòng)を厳密に區(qū)別し、大半の大衆(zhòng)に対しては一種の友好、協(xié)力、寛容と理解の姿勢(shì)を示し、原則を堅(jiān)持するとともに、大半の人が団結(jié)するよう心を砕きました。 |
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