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山高し道遠(yuǎn)し 徐敦信元駐日大使が見(jiàn)る中日関係 |
発信時(shí)間: 2009-09-21 | チャイナネット |
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中國(guó)政府は在留日本人の帰還、日本人殘留孤児の処理、日本戦犯の管理教育と寛大な処理、日本人戦沒(méi)者の遺骨の安置?返還などに人道主義の精神、徳をもって怨みに報(bào)いる精神で対応しました。
その一方で、中日両國(guó)はいずれも経済発展を必要としており、新中國(guó)は復(fù)興が待たれ、日本経済も戦後の非常に困難な時(shí)期にありました。中日は近隣であり、経済が困難な時(shí)期における貿(mào)易の発展は、お互いに必要だったと言えるでしょう。とくに日本の中小企業(yè)は中國(guó)の原材料、市場(chǎng)に非常に依存しており、一部の中國(guó)特有の原材料は死活にかかわるものでした。経済面においても互いに必要性があり、政治面で我々が正しい方針と政策を講じたことが、日本國(guó)內(nèi)で大きな反響を呼び、新中國(guó)を理解し、新中國(guó)との関係を発展させる、さらには外交関係を確立するよう求める聲がますます高まっていきました。
國(guó)際的な背景を見(jiàn)ると、中國(guó)の1972年の國(guó)連復(fù)帰が日本社會(huì)を大きく揺るがしました。これは日米が連攜して中國(guó)を牽制しようとする政策が失敗したことを有力に物語(yǔ)るものです。日本においては中日関係の回復(fù)と友好往來(lái)を求める大衆(zhòng)運(yùn)動(dòng)が湧き起こり、様々な友好組織や友好人士が日本各地に現(xiàn)れました。これを背景に、周恩來(lái)や廖承志などが盡力したことで、民間の交流が推進(jìn)され、「民が官を促す」ことになったのです。田中角栄氏は72年の首相就任後、自民黨內(nèi)の田中派や大平派、三木派、中曽根派など主要派閥の支持を受けて、中日國(guó)交回復(fù)という政治決斷を下しました。
関係正常化後の70年代にわたり、中日関係は善隣友好の回復(fù)に向けて歩み始めた段階にあり、主に共同聲明が著実に実行に移され、その多くは比較的順調(diào)に進(jìn)みました。この時(shí)期、中日間の貿(mào)易は急速に発展し、雙方は貿(mào)易や航空、海運(yùn)、漁業(yè)関連の協(xié)定に調(diào)印したほか、平和友好條約の締結(jié)交渉も始まりました。「中日平和友好條約」が調(diào)印されたのは78年8月のことです。
関係が全面的に発展した20年 鄧小平同志は78年10月に日本を訪(fǎng)問(wèn)しましたが、目的は主に二つありました。まず條約の批準(zhǔn)書(shū)を交換して「中日平和友好條約」を正式に発効させることです。條約は単なる歴史の終わりではなく、未來(lái)を切り開(kāi)く、中日関係を発展させるための基礎(chǔ)を築くものでもあり、それから20世紀(jì)末まで、中日両國(guó)は関係が全面的に発展していく20年を迎えました。しかし、その20年も面倒の連続の20年でした。 |
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