重慶爆撃を準備した舊日本軍は當初、中國人民はすぐにでも屈服するだろうとの幻想を抱いていた。だが6年10カ月にわたって爆撃を続けても、中國人民はこれを恐れることなく、舊日本軍は爆撃に対する自信を失っていった。
「重慶の山々は縦橫に入り組んでいる上、巖石を主體としており、防空壕の建設に非常に適していた」。銭峰?副館長によると、當時は防空警報が鳴るとすぐに、人々は防空壕に入って空襲を下げた。敵機が去ると、人々はまたすぐに出てきて仕事や生活に戻った。舊日本軍はなすすべもなかった。
舊日本軍第三飛行団の遠藤三郎団長は當時、舊日本軍參謀本部への報告書「內地進攻に関する意見」において次のように述べている。「私は自ら爆撃機に乗り、數回にわたって連続で重慶爆撃に參加した。重慶上空に到達すると、二つの川の合流點にある重慶市街が破壊され、見渡す限りの傷跡であるのが見えた。川の両岸、とりわけ右岸地區は大きく発展しつつあったが、どこを爆撃すれば致命的となるのかまったくわからなかった」(中國語からの訳)
過去はまだ消え去ってはいない。70年余りの歳月が経っても、防空壕は重慶の獨特な風景として殘っている。山中に隠れた防空壕の一部は、夏の納涼の場所ともなっている。その姿は決して目立つものではないが、過去を示す鉄の証拠として殘っている。この一見みすぼらしい防空壕こそが、舊日本軍による爆撃の効果を大きくそいだのである。
「中國網日本語版(チャイナネット)」 2015年7月20日